猪爪彦一展『物語ははじまる―第2楽章』によせて
谷哲夫[学芸員]

今年の個展はこれで5回目だが、年々少なくなってきた
と彼は笑う。グループでの発表も数えたら驚異的な回数
だと私は言う。また二人で笑う。
11月の末に久しぶりに猪爪彦一のアトリエを訪ねたが、
芸展出品作「夜のオブジェ」シリーズの2作目が早々に
仕上がりつつあった。年を締めくくる長岡での個展には、
この大作一対のほか、宵闇の中でひそかに息づく植物、
人間の住居の表象たるテントを描いた風景、はたまた彫
像のように居並ぶ人間像など、約20点の近作が展示さ
れる。
私は、猪爪の絵画が、まずその静寂感ゆえに多くの人々
に愛されてきたのだと思う。しかしそれは決して無音や
静止ということではない。画中に微かにたなびく煙や、
見知らぬ生物の羽化を思わせる夜のオブジェといった相
には、速筆多作のイメージとは異なる、猪爪の生命観想
の視座が示されているのだ。ラルゴとピアニシモ。極め
て緩やかで弱く在るものたちへの深い慈しみである。
では、こうした感覚が支える表現によって彼が語るのは
何か。中型の作品「物語ははじまる」は、良い手引とな
ろう。地平まで並ぶ直方体は、遠近描出から外れた形態
で己を主張しながらも、肩を寄せ合う。だがそれらは、
瞬時にして目の中で墓石群にも変容する。感覚と知との
融合。われわれは形ある一切のものが実は切ない存在で
あることを忘れがちだが、猪爪の絵画はひそやかに、人
間存在の苦、真理を解き明かしているのだ。
彼の柔らかなマチエールや色彩は、常に同胞の気配とな
って、静かなる知の深淵の刻に、美の、救いの手を差し
伸べてくれる。 (新潟日報「あーとぴっくす」掲載)

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