岡谷敦魚 版画展によせて
タキザワナオト

アートとは、自らの外なる「美」と、自らの内なる美的
感覚との呼応ではないかと考える。美を極みまで見つめ
続ける中、美しさそのものは己にかかわりなくすでに完
全な形でそこに在るという達観が生まれ、しかし、それ
を感知する意識があって初めてそれは存在するのだとい
う知見が生じる。いずこからかやってくる、この<外な
る/内なる>美、両者をつなぐ皮膜・境界として、その
相互関係のかなめとして存在する作者自身は、媒介=メ
ディアなのであり、また作者が自ら感じた美なるものを
記し留めるメディアとして、さらに鑑賞者に提示される
メディアとして、作品が生み出される。それはいわば見
えないものを映し出そうとする、言葉にならないものを
言語化しようとする、そんな営みではないか。
岡谷敦魚氏は、版画-版という物質と紙という物質の境
界にインクの層が形成されることに鋭敏な意識を持ち続
けてきた。銅版上でインクの微粒子が蠢き、紙の繊維上
でさらに変化して定着する。その狭間に醸し出される画
面はまさに「景色」であって、さまざまなイメエヂを喚
起する。こうして描き出される像は、ある意味人為を超
えている。しかしそこに美を感得し、切り出し、意図を
超えたものを含めて意図的に結晶させるのは作者の美意
識である。刷られた部分だけでなく空白の部分も含め、
提示された作品全体の空間構成に作者の意識が行き渡っ
ている。<見える/見えない>風景を、一瞬の燦めきを、
そして時の流れを、いとおしむようにとどめようとする
営為。「いいおおせて何かある」、それは承知の上でそ
れでも表現せずにはいられない思い。
有機的な画面、「景色」の中で、<浮かぶように/沈む
ように>置かれた3つの点は、円という幾何学的な形態
をとることで文字通り特異点であり、また本来的な意味
で大きさを持たない観念的な存在である点は、見えない
はずのものが可視化された、現象界における特異点でも
あり、此岸と彼岸いずれにも属さず、かつ両者をつなぐ
ポイントとして存在する。美の実存の前に人は無に等し
いが、作者がそれに対峙して自らの存在を刻みつけた有
形・無形の痕跡を、鑑賞者は見出すことになる。
こうして、作者は作品を通し観る者にかかわりを差し出
す。私たちは、作品に向かい合うことで作者の感得した
美を照射されつつ、自らの内に新たなる美的感覚を喚起
される。この端正な作品は、<あなた/私>の居る空間
にすっとなじみ、かつ独特の存在感をもって静かに光を
放つだろう。

新潟日報「あーとぴっくす」掲載

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